大きな木のような人になりたい。

草助ブログ

最近、Youtubeの動画でひきこもりを救うための施設「粋塾」を見始めた。

親とのやり取りや、実際にひきこもりをしている本人を粋塾に連れ出す場面が生々しく、ない暇を見つけては動画を見ていて自分たちの幼少期の心と照らし合わせたり、親となった現在での親の心の在り方、粋塾のスタッフの熱くて優しくて大木のようなどっしりとした気持ちを感じ、そんな人間になりたいと思ったわけだ。

そこで感じたこと。心が通じていない。心を閉ざすと他言語のように相手の言葉を聞こうとしなかったり、聞けない障害物のような何かが心を覆っているように感じた。

その何かを取り除くのは非常に難しく、極端に言えば自分が自分に心を閉ざしていて、本人でさえ自分を見失ってしまっている状況かもしれない。

そこに入り込むのは非常にむずかしく、本人ではもはや無理だろう。だからひきこもっているわけだが、親がどうこうできるレベルでもない。

そこは、プロに任せるのが一番なのかもしれないと思うが、粋塾にはそれを任せられるスタッフがそろっているように思える。

何時間でも真剣に話を聞き続けるスタッフ。まだ名前を憶えていないので、お伝え出来ませんが。

笑顔と本気の表情で相手の心に届くように言葉を伝えるスタッフ。

体はまさしく大木のようで、でも目はどこかかわいらしく、どっしりと構えて、微動だにしない大黒柱というイメージの塾長?

あの懐が深い塾長がどっしりと構えて粋塾の大黒柱としているから、スタッフもどんどん成長するだろうし、一人ではできそうもない案件にもスタッフとの阿吽の呼吸で解決へと導けるのだろう。

僕は、子供の頃はひきこもりでは無かったが、高校は思ったほど楽しくなく、大学進学をせずに社会人になり、学力はなくとも色々な事を経験してきた。

そして農家になってから、思うように行かない時期、大げさに言うと少しひきこもりのような時期もあった。それはまだ続いている感じはある。

外に出る事に臆病になり、人とは基本的に会いたくない。いつもそうとは限らないが、無意識に人と距離を置く癖ができてしまった。

そういったものはなかなか治るものでもなく、積極的に自分で表に出て行ったり、人とかかわる事で解消するのだろうが、心に覆ってしまったベールは自分でもつかめていなかったりする。

それをこの粋塾の動画を見ることで、ほんの少し理解して、理解することで少しはベールの存在を具体的に感じ取れるようにもなってきた。

本来の僕は、自分で言うのも恥ずかしいが、勢いがあって自信家で有言実行のタイプではあった。それが色々な疲れもあって勢いが弱まり、いつしか転んでしまった。転んでもがいている自分からは人の顔は見えずに、みんなが自分を馬鹿にしていると思っていたし、いまでも思っている。

馬鹿でもいい。だって馬鹿だから。最近、そう思えるようになってきた。それが去年から今年にかけての収穫だろう。

失敗しても何とかなるし、必ず何とかしてきた。今生きているだけで成功であろう。家族も笑っているし、今日も幸せでいっぱいだ。余談であるが、今日は下の子の4歳の誕生日。妻の手作りシフォンケーキがお世辞抜きに上手く、皆様にお届けできない事が非常に残念なレベルで、それを笑いながら食べられる僕は、どう考えても幸せだろう。

「絶対に何とかする。大丈夫!」とドシっと構えていられる粋塾の塾長のように本来はなれるのかもしれないと、自分では思っている。自分で思うのは自由だろう。それを批判されても僕には一切響かない。

テレビの中の大木を目の当たりにして、どこか樹齢数百年の屋久杉を眺めているかのような感覚に陥るほど、圧倒されていたし、感銘をうけた。

僕は、どんな人にも素晴らしい部分はあることは理解しているし、そして欠点がない人はいない事も理解している。どこまでいっても人は人、自分は自分だ。

完全に交わることは無い。

尊敬する人もパっとは思いつかないし、人の言葉が僕に届きづらくなってから、より尊敬できる人を見失ってしまっていた。

そういう時があったからこそ、妻が偶然に見ていた粋塾の動画を見たのがきっかけで塾長やスタッフを知れて、見て、言葉を真剣に心に刻んでいる。

それは、凍り付いていた僕の心を少しずつ溶かす熱を持っていた。

映画を見ても何かが邪魔をしていて感動を最高に感じることができなかった。楽しいことは楽しいと思えても、真の感動は心が震えるものだと思う。そういった感動は久しくし感じていない。

最近では下の子が無事に生まれてきてくれた時だろうか。それは本当にうれしかった。

上の子の高校を合格できたことだろうか。これもうれしかった。でも感動ではなかった気がする。

そう思うと、4年間も僕は心の底から感動していないことになる。そこまでだとは思ってもいなかった。

それか、下の子供が生まれてきてくれたことが本当に奇跡のような話だったので、その感動が大きすぎて感動に鈍感になっているのだろうか。それはあり得る。それほどまでに奇跡のような話だったから。なるべくはやく読者様にも聞いていただきたいと思っております。

無意識に自己分析をしてみると様々な事が分かってきて非常に意味があるのですが、結局どうすればいいのか?という解決方法が見つからない・・・。と書いているときに思ったのが、感動をする行為をしていない、すなわち僕が感動をしないように消極的になっているということがわかってきました。

植物で言えば根を広げていないというイメージかもしれません。それでは大木にはなれませんよね。多分。

精一杯に広げた枝の葉から揺れる木漏れ日、あたたかな日差し、眠っているような寝ていないような、安らいだ時間。

体力も気力も全回復して、枝をもっと伸ばして、葉を増やし、花を咲かせ、それと同じくらいのエネルギーで見えない根を地道に広げる。

大木になる準備はできた。

錯覚でもそう思わせてくれた粋塾に感謝だ。そして、いままでついてきてくれた妻と子供たちに感謝と愛情を送ろう。

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